お花見
そんなお花見。場所は上野。
お花見用に飾り付けられた灯篭が夜桜を彩ります。それはそれは美しい光景であります。
しかし、ながらそれはあくまで
目線を上に向けた時。そう桜の上に目を向けた時であります。
その美しい桜の木の下では
その美しい桜とはあまりにも対照的なカオスがありました。
日頃の不満を叫ぶサラリーマン。
桜の木の下で、ギターを奏でながら合唱する輩。
花見という、桜の木の下で繰り広げられる宴には、普段の居酒屋以上のカオス。外だからこそ繰り広げられる人間活劇があります。
そもそもどうして人は花見をするのか。
しかも、それも桜に限り。
花って年中咲いてるものって基本ないですよね。それぞれの四季ごとに花を咲かせていく。
なのに、どうして桜なのか。
紅葉の下で葉見をしてもよいのではないか。
桜の景観のレベルは秋の紅葉と等しいレベルではないのか。
みんな、紅葉狩りとか行きますよね。でもそこで宴を行ったりはしない。
いったい何を狩ってるのか教えてもらいたいものですが。
調べたところ花見は
古代に桜の木の下で呪術的要素をもつ宴が模様されたことがきっかけらしいです。
その後に、奈良時代では花を楽しむ行事へと変わり、平安時代では古今和歌集における、春の歌のほとんどに桜が登場するほど、花といえば桜というように人々の間で定着していき、人々の間で知らず知らずの間に、春といえば花見をするという行為が刷り込まれていきました。
その文化が、この時代でも形式的には残っているのでしょうね。実態は、桜の木の下で行う宴会という程度ですが。
竹原は思うのです。
きっと桜じゃなくても楽しめる。
そして、むしろ花がなくても楽しめる。
必要な要素は若干周りがガヤガヤしている感じ。花見をしているっていう意識。周りの生み出すカオスにより、自分たちを溶け込ませることができる環境が大切。
カオスさのない花見はただのピクニック。
最近はそんなきがしてます。
個人的な花見のイメージは、サラリーマンがネクタイを頭に巻いてウィーって言っているイメージ。
高校生が三ツ矢サイダー片手に青春の一ページを綴ってる光景はおても想像できません。
花見はハタチを過ぎてから。
まさにお酒と同じなのかなと。
桜の美しさが、その下で繰り広げてくれることを浄化してくれるのです。
よく、
桜の木の下には死体が埋まっている
などと言いますが、まさにそんな関係なのでしょう。
だから、竹原は
夏のバーベキューにはムカつくのに、春の花見にはムカつかないのか。
夏のバーベキューなんて、なんでわざわざ暑いところで熱いものを食べるのか理解できない。(誘ってもらえない側のただの僻み)だったら冬は極寒の中で、冷麺でも食べてろって思います。
そして、花見により出されるゴミもうまいことに、その種の方々により綺麗に分別されていきます。 ある意味、サイクルが出来上がってるのかなとも思います。
こんな都会でも、変わらずに
桜を愛でる文化が本意からそれつつも存在していて、宴を興じることができる場がよりあることは素晴らしいことなのかもと思った竹原でした。
田舎だと、「何あの人たち?」って目で見られるし、せいぜいできても公園レベル。そして、下手すれば警察が来るレベル。
そういう点では、コンクリートジャングルな都会の方が、四季が普段あまり見えない分、一部に集約し、大切にしているのかなって思いました。
でも、思います。
きっとガチめなリア充って花見とかしないんだろうなって。そして意外と花見会場って民度低いよね。
お金持ちのエクストリーム花見を見て見たいおものです。
ということで、想像して見ました。
竹原的エクストリーム花見
・琴の生演奏付き
・料理がどこかしらから運ばれて来る
・お食事の前に桜を凝視する謎の時間がある
・とりあえず短歌を読む
・視界に入る範囲を立ち入り禁止にする
・なぜか植林式も行う
・桜チップとか使ったスモーク系の料理がふるまわれる
・何故かテーブルがある
・桜が料理に落ちないように風を管理
・着物のお姉さんが隣でお酌
いざ出して見たらあまり面白くなかった。
あーーーー!!
スランプだー!!!!!
(もとからそんなに面白くはない)